地球での生活レポートをしたためています。 この星で、ぼくが何を考え、何をしているのかを知る良いツールだと思います。
友人がブログを始めていました。開けてびっくりのステキなブログなので、毎日更新を楽しみにしています。彼のセンスは秀逸で、オチが効いているので飽きません。彼は理系ですが、文章の展開、流れが良くできています。美文を著す理系…ステキではありませんか。
彼は、また音楽も能くします。ポップチューンのエレクトロニカといったカテゴリに入ると思うのですが、これも楽しいものに仕上がっています。ぜひ、お聞きください。
このように楽しいブログですので、是非ともご覧ください。
d.hatena.ne.jp/manjitalk -------- TITLE: 教養について AUTHOR: カイト DATE: 7/01/2007 2:53:00 PM CATEGORY: Logic ----- BODY: 教養という言葉があります。僕は世の中をかっこよくスマートに生きていくために必要不可欠だと思っています。
そもそも、教養というのは様々な物に対する知識が人の中で消化されてその人の体の一部となっている形だと思っています。ただ、知っているだけでは雑学です。それについて考え、理解する(消化する)ことが必要だと思うのです。
そして、それは必要だから手に入れるものではなく、それを目的として手に入れるべきものだと思っています。そうです、カントの「目的の王国」です。教養とはそれ自体を目的として主体的に取り込むことで、始めてただの知識というもの昇華され、生きたものになると思うのです。主体的でないものはただ学校で慢然と授業を受けているのと変わりがなく、ただの知識、雑学にすぎません。
教養とは、主体性を持って知識を体に取り込み自分の一部にすることだと思うのです。
私は、雑学者には出来ないことが、教養者には出来ると考えています。教養とは理解することであり、信じることではありません。ゴータマ・シッタールダは自らの教義を説く際に
「信じるのではなく分かれ」
と言ったとされています。それに対してキリスト教では
「信ぜよ」
という言葉がよく出てきます。一神教におけるThe Godは唯一絶対であり、個人の思索が及んではならないということかもしれませんが、これが原理主義に繋がっているきらいもあります。
信じるとは即ち、知識を盲信する、つまり雑学とすることです。それに対して、分かるとは知識を理解する、つまり教養とすることだと思うのです。信じることも場合によっては大切でしょうが、応用力を効かせようと思ったら理解することが必須のように思えるのです。 --------